選択肢を持つという事
時は午後八時半。
一時間前に息子が就寝し、九時に食事タイムのにゃんずの飯飯攻撃をやり過ごしながら更新しております。ダイエット宣言をしたので毎日の食事と運動の記録を綴ろうかと思ったのですが、スマホからの画像転送方法がいまいちわからず夫帰宅後案件になるため、雑談を綴ることにいたしました。冗長なうえ結論が見えない記事ですが、お付き合いください。
我が家には小さな小さなテレビが一台あります。ハイハイ絶頂期の息子にはその存在が確認できない位置に、リビングに設置するとは到底思えない大きさのテレビが一台のみです。
我々夫婦はこのテレビを主にyoutube、Tver、BS及びNHK観賞用に利用しています。我が家はNHKの受信料に謝礼を追加してもいいほどに公共放送にお世話になっております。
リアルタイムで見るのはz○pくらい。それも内容を楽しむのではなく、”水卜アナが朝飯食べ始めたら七時””健二郎がDIY始めたら出発”のように、まるで田舎で流れる時報音楽のような利用方法です。(ちなみにこれは筆者実家でも同様の目的でズームイン朝を利用しており、結果として物心ついた頃にはマイナスの概念を理解しておりました。あの温度計と全国中継は後の絶対値の概念と地方ごとの気候の違いを学ぶ上で非常に有益だと思うのでぜひ復活してほしいものです。)
もちろん我が息子はテレビの存在を知りません。いや、正確に言うと自宅におけるテレビの存在を知らないのです。というのも我が母は超テレビっ子なので、必要もないのに一日中テレビからの雑音を垂れ流しているためテレビそのものの存在は理解しております。(息子は週2で実家に行きます。)しかしそれはあくまで我が実家に行った際に目にするものであり、自分の日常には存在しないものと考えているようです。証拠に、NHK教育の子供番組を目を輝かせながら凝視し奇声を発しています。(やはり偉大な公共放送)
一方、夫実家は真逆であり、夕方に地元ニュースを見て一日を締めくくる程度にしかテレビをつけません。筆者が夫実家に居心地の良さを感じるのはきっとそういった静かな環境なのでしょう。
お話好きな義母とはひたすらに話し続けます。お互いの近況から家族の不満まで、それはそれは様々です。あまりにどストレートに聞いてくる義母にたまに面喰いヒートアップしますが、それに対して筆者が不快感を直球で表現しても受け入れてくれる義母です。両家顔合わせの後、母に「嫁姑問題で苦労するようなお母さんじゃなくてよかったじゃない」と言われたほどに合理的で洗練された義母です。筆者のような性格にはぴったりでしょう。
大幅に脱線したので本線に合流しようかと思います。
かつては三種の神器と言われ、それがあることが富裕層の象徴でもあったテレビ。
しかしメディアが発達した現代においては数ある選択肢の一つとなっております。
代わりに台頭したのがSNS。
人々は誰もが有名人になる機会を得、自らの私生活をさらけ出しそれを認められることで己の存在意義を確固たるものにしようと切磋琢磨しています。
まるでそのようなことに興味のない筆者、気づけば友達から浮いてしまい愛想笑いを浮かべるだけになっていました。
理想の生活をしている自分と同じ”一般人”の誰かのSNSをフォローし、プライベートを覗き込むことで、”手の届く理想”に思いを馳せる友達。
極貧の機能不全家族に育ち、目に見える現実こそが全てと考える筆者。
極貧育ちのため物理的な欲求(カレー除く)が乏しく(というより叶わないとわかっていたためそんな欲求は持つだけ無駄だと考えておりました)、書籍やインターネットから得られる知識について議論をかわすというお金のかからない遊びを夫と興じる筆者。
グルメにファッション、輝かしい世界に憧れを抱き洗練されたライフスタイルを追い求めその話題を共有し続けている友達。
各々が好きなものを追い求めるのは当然だと思うし筆者も誰に何を言われようともこの遊びをやめるつもりはございません。
しかし、共有できない話題を、さも皆の関心事をシェアしているかのように発信されると筆者は困惑するのです。
受信先の一人になっているということは私も興味を持っていると思われているのだろうか。否。しかしここで反応しないことで接点が薄れますます話題についていけないことになるのではないだろうか。
数年前に皆と話題が合わなくなってきていると言われた筆者、誘いの声もかからなくなりそれでもいいやと思いつつ一抹の寂しさを感じてもおりました。そのなかでこの共有を無き物にしてしまうと自身にはもっと大きな疎外感が待ち受けているのではと悩み続け、遂に疲弊してしまったのです。
TVからの限られた情報しか得ることが出来なかった時代では共有できる情報量も限られており、このような事態にはなっておりませんでした。
歳を重ね、生活環境も趣味嗜好も変化していく中で、コミュニティだけは変わらず存在しています。そのメンバー達は、誰かがSNSから拾い上げた情報に対し感情を共有することで関係性を強固なものにしていくのです。
その情報が不要でありながらも一員として何かしらの責任を果たさなければと思案する中、筆者は情報に選択肢が出来たことが自身の立ち振る舞いの選択肢を狭めつつあることに気が付きました。
筆者と友人はSNSにより広がった世界の対極に位置しているにも関わらず同一コミュニティの一員なのです。
コミュ力が高いと評される筆者、しかしそれは誰とでも空虚な会話が出来るだけの話であり、実際は広く浅くにも該当しないほど薄っぺらい人間関係をたくさん築いてきました。今思うのは自分にはその程度の人間関係が最適だから無意識にそのような関係性ばかり築いてきたんだなということです。
そんな人間関係からでも本当に心の内を話せる相手はできるもので、きっと所属コミュニティを抜けてもいくらでも生きていけるのだとようやく思えるようになりました。
友人も恋人も家族も、それぞれに共同体としての特性があり、それを理解し妥協もしながら折り合いをつけることで生きづらさがすこしずつ解消されていくだと感じております。うまくいかなければ脱退すればいいだけの話です。そのくらいの気軽さをもって人付き合いを続けていこうと決意した次第であります。
追記:昨晩、作成中に寝落ちしたためこの記事は12時間にまたがり更新しております。書き出しの内容と更新時間のズレ、ご了承ください。